函館絵馬と荻ノ島焼のお話

宝珠寺ゆかりの『陶工 足立岩次』

宝珠寺に残る『函舘真景絵馬』

明治時代の話です。

『函舘真景絵馬』(細久手小木曽文州画)は、次のキーワードをつなぐものです。

荻之島焼 足立岩次 函 館

 

「荻之島焼」は、天保年間(1830~1843)に荻之島村の足立良平、足立財助の両人が開窯した美濃焼です。その後を引き継いだのが足立岩次です。岩次は、1817年生まれ、72歳の明治22年に没しています。

荻之島焼・足立岩次の優れていた点は、次のようなことです。

  • ペリーが浦賀に来航した時代は、美濃焼の揺籃期で、磁器らしい焼き物が市場に出始めた時ですが、この頃、すでに釜戸では、立派な磁器が作られていたのです。荻之島焼といいます。
  • 岩次の作った呉須(磁器の染付に用いる藍色顔料)は、酸化コバルトを使用しなくてはできないものだそうですが、コバルトを購入し、呉須にする調合法を研究していました。岩次の技術の優秀さがみられるわけです。

安政5年(1859)、北海道函館が産業奨励の一つとして瀬戸窯を起こし、足立岩次を招きます。宝珠寺にある『函舘真景絵馬』は、岩次らが北海道への出発を前に、事業の成功を祈って奉納したものでした。

残念ながら、函館での荻之島焼は収支が合わず、廃止となり、荻之島に戻ることになります。そして、碍子(がいし)の製造を志しましたが、かんばしい結果とはなりませんでした。ただ、この時代に、時代の先端をいくものを作ろうと決心した彼の姿勢は、敬服に値するものだといえます。

宝珠寺に掲げられている箱館(函館)絵馬には、足立岩次の思いがこもっているのです。