宝珠寺の歴史と歴代和尚

宝珠寺の始まりは不明だが1676年から記述があるので、延宝年間〈1670年代〉には存在したと思われる。しかし、その当時は荒れており整備が必要であった。そんな時、宝珠寺の再興に努めた人達がいた。

<初代 無外一有>

江戸時代の元禄年間〈1688~1704〉に同じ釜戸の天猷寺の住職である大雲慈徳和尚が釜戸・町屋の藤田家出身の無外一有首座に命じて当山再興にかかる。

無外一有首座は自分の甥にあたる庄屋の三宅嘉助と協力して田地等買添え基礎を定め、見事宝珠寺を再興したが、享保9年(1724)2月28日72歳で亡くなる。

この事から、宝珠寺では再興を指示した天猷寺の大雲慈徳和尚を開山、実際に再興を主導した無外一有首座を開基、無外一有首座に協力した三宅嘉助を準開基としている。

 

※三宅嘉助について

この後嘉助は養父の名をもらい五郎右ェ門と名を改める。

明和7年(1770)6月16日92歳で亡くなる。戒名は月法了圓居士

 

<2代 一関禅超>

釜戸・下切出身。詳しくは子安観音の由来に準ずる。

享保16年(1731)10月29日に亡くなる。

 

<3代 譚叟祖北>

住職在位11年。宝暦6年(1756)に宝珠寺の現在の本尊である聖観音菩薩を入仏。同8年(1758)5月29日に亡くなる。

 

<4代 天瑞祖満>

住職在位5年。宝暦13年(1763)7月11日に亡くなる。

 

<5代 白翁祖蓮>

住職在位33年。寛政7年(1795)8月2日に亡くなる。

 

<6代 円翁祖覚>

生縁不詳。卓洲の禅の修行に専心し、禅画・十六羅漢の筆跡を残す。

仏法に精通し播州(兵庫県)明石慈泉寺・上野崇雲や宝珠寺7代宗茂(後の宜頓)など弟子数人を育て、文化8年(1811)に当山の厨裡を改築する。

文政9年(1826)、名古屋大須總見寺の※①漁巣老師(卓洲胡僊禅師)を請し盛大に法会を催す。この会中毎日のように高名な宿老(僧侶)が来山され、広間4本戸松の墨絵は※②横浜永田宝林寺の師家・妙喜和尚の筆とされる。

宜頓に座を譲り、北東隅池の上に隠居し10数年、天保14年(1843)正月10日遷化。

当山再中興と崇む。

 

※①漁巣老師(卓洲胡僊禅師)

白隠禅師から継がれる白隠禅を師匠である横浜・宝林寺峨山禅師から受け継ぎ、後に卓洲派と呼ばれる禅風を開いた。諡号は大道円鑑禅師。

※②横浜永田宝林寺

漁巣老師の修行寺、僧堂があった。江戸時代に学僧の修行の場となっていた。

 

<7代 円道宜頓>

宝珠寺6代円翁祖覚の弟子。弘化2年(1845)7月21日亡くなる。

住職在位10数年。

 

<8代 大道祖円>

弘化3年(1846)、師である※①天猷寺敬雲和尚の厳命に依り住持。

生縁は三河地方。敬雲和尚を頼り三河より釜戸に文化・文政年間に来たとされる。

釜戸・中切保母家に養子として入り敬雲和尚につき修行。

弟子入りして敬雲和尚について従うことを決心する。

大事了畢…仏法の究極を明らめ、修行を成就すると文書に記述有り。

嘉永2年(1849)観音堂及び龍堂を再建、安政5年(1858)に弟子の祖恩に譲り

光春院に隠居する。

俳句や歌を楽しみ、時の人からは今一休と呼ばれる。

「無により無に入る 有により有による」

「年の暮 誰か死なんか おれはいや」

「つぼとりの尻の割れ目は丸の字」

などの俳句や歌を残し、俳号を売仏と称する。

明治9年(1876)正月28日亡くなる。光春院に葬られる。

 

※①天猷寺敬雲和尚

敬雲宗慈。天猷寺10代住職。文化13年(1813)~嘉永6年(1853)に住持。

釜戸中切安藤家出身。

虎渓山永保寺で修行し、後に請われて故郷釜戸の天猷寺の住職となる。

天保12年(1841)~嘉永6年までの12年間虎渓僧堂師家。

弘化4年(1847) 妙心寺住持職となり、紫衣を賜る。

 

<9代 澤雲祖恩>

安政5年(1858)から住持。飲酒病で苦病したが、法儀を備え大きな業績を残された。

明治29年(1896) 安江幸右エ門・水野善九郎他十数名と協力して本堂再建する。

また法地就班を行い現在の妙心寺を本山とする体系を作る。

明治33年(1900)71歳にて亡くなる。

 

<10代 実應恵参>

可児・東禅寺徒弟。

明治32年(1899)に住持。

明治35年4月 子安観音の開扉を兼ね、虎渓山より老師を招き提唱・授戒会を行う。

明治40年、八百津・伊岐津志・明鏡寺に転住。

 

11代和尚が入寺するまで天猷寺朴雲和尚弟子大光首座が看護。

明治42年 檀徒有志が土蔵を改築。

明治45年(1914)  大光和尚天猷寺に住山により朴雲和尚が宝珠寺に隠居。

それにより朴雲和尚が住持。

 

<11代 朴雲祖瑞>

天猷寺13代住職(明治24年~45年)

天猷寺住職である間日清日露戦争に従軍し手柄を立てる。

大勢の弟子を育て、当山12代円應宗哲・天猷寺14代大光和尚・光春院雲耕和尚・三河長照寺貫道和尚などがいる。または明治時代の廃仏毀釈で荒れた加茂郡切井龍気寺を自分の弟子である仁応和尚を助け、お寺を再興した。

さらに、地元の人達と協力して龍吟の滝の開発を進め、観光地として整備した。

宝珠寺に於いては30年余り住職を務め、お寺の記録や整備に力を注いだ。

大正4年、高野山奥之院に請願して厄除弘法大師のご分身を戴き拝載入仏(胎内佛)する。奥之院御宝前には常夜灯一対を献じ信者の健康御守護を祈る。

昭和20年9月25日、遷化され当山に葬る。

 

<12代 円應宗哲>

昭和13年4月 龍気寺を隠居し宝珠寺に入山。

昭和14年   宝珠寺にて副住晋山し翌年9月正住に。

昭和16年   太平洋戦争が開戦し物資不足のため山内の金属は供出される

昭和18年1月30日 大鐘・半鐘も供出

昭和31年4月27日 遷化され、天猷寺大光和尚2年間兼務す。

 

<13代 桂雲弘道>

昭和33年   晋山住職

36年   位牌堂(縦4間横2.5間)増築

47年   観音堂移転整備

同 7月2日 鐘楼堂新築、落慶法要は盛大に行う。

また、同時期に駐車場の設置・前畑を整備し遊園地として兼用。

釜戸小学校荻ノ島分校(復礼館)の教員を務め、沢山の子供たちを教え慕われる。

退職後4区の子供たちにお経や習字を教える。

平成元年正月20日に亡くなる。

 

<14代 大峰典久>

昭和52年11月 晋山住職

平成6年~15年 位牌堂・本堂・観音堂・鐘楼堂・庫裡等屋根替え

平成10年    駐車場造成石積、トイレ修復

平成22年3月  荻ノ島分校解体

同  5月  分校後石積

平成25年11月 本堂等耐震工事

 

<15代 徹玄照倫>

平成27年11月3日 晋山住職

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